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野上電気鉄道の開通
海南市東部(北野上、中野上、南野上)から野上町及び美里町の一部に及ぶ野上谷と呼ばれる地域は、古くから棕櫚(シュロ)の木が繁殖していました。平野部が少なく農業に適さないこの地域は、棕櫚(シュロ)を原料としたタワシ、ロープ等を製造する「棕櫚(シュロ)産業」が栄えていました。
棕櫚(シュロ)製品は船便により各地へと運ばれていましたが、
1916年、日方 – 野上間に野上電気鉄道が開通されると、これらの輸送は鉄道へと切り替わります。
1928年、野上電気鉄道はさらに生石口(後に登山口に改称)まで延伸されました。
「棕櫚(シュロ)産業」と共に繁栄する野上電気鉄道でしたが、
やがて棕櫚(シュロ)製品の輸送はトラック輸送に変換され、
1966年10月1日に小口扱い貨物、1971年6月1日に車扱い貨物がそれぞれ廃止となりました。
残る旅客輸送も廃止やむなしと思われましたが、
オイルショックによる鉄道見直しの風潮が世間に漂いはじめ、
国や海南市などにより補助金を受けることで野上電気鉄道はもち直します。
野上電気鉄道の廃線跡
しかし、設備の老朽化や乗客の減少により1992年に再び全線廃止が打ち出されました。
沿線住民からは反対運動などが起こるも
1994年にとうとう廃止となってしまいました。
野上電気鉄道の一部は遊歩道となっています。
くすのき公園のモハ30形31号
下佐々駅跡付近のくすのき公園内にモハ30形31号が保存されています。
登山口駅跡
登山口駅跡は、大十バスの車庫となっています。
さらに東へ!野上電気鉄道の未成線跡
野上電鉄は、さらに東、高野山を目指す計画がありました。
高野山までの免許を取得するも、株主や社内で意見が分かれ、建設は中止となりました。
その後も「生石口駅(後の登山口駅)」 – 大木 – 下神野村間の免許は一部残していましたが、この区間も1964年(昭和39年)に免許が失効してしまいます。
延伸区間では一部の橋脚が完成していたものの、台風によって倒壊し、今もそのまま放置されています。