日本近代兵制の創始者・大村益次郎氏。長州藩出身の大村氏は大阪を中心に軍事拠点の配置を進めました。
その理由は…
・大阪がほぼ日本の中心に位置しているため。
・「農兵論(一般徴兵論)」を主張する大村益次郎と「藩兵論」を主張する大久保利通派。
意見の対立する大久保利通派から免れるため首都・東京から離れた。
・薩摩の反乱(西南戦争)を予見していたため、できるだけ九州に近くへ。
…などなどの理由があるようです。
大阪城の大阪砲兵工廠を中心とする関西各地に軍事関連施設が作られました。鉄道輸送が発達すると物資輸送のために鉄道専用線が建設されました。終戦後、廃線跡の一部は今でも戦争遺跡として残されています。
Contents
禁野弾薬庫専用線(大阪府)
JR片町線(学研都市線)「津田駅」と禁野火薬庫を結んでた「禁野弾薬庫専用線」。
廃線跡の大部分は国道307号線に転用され、中宮本町から中宮西之町までの区間(約600m)は「中宮平和ロード」として整備されています。
蒸気機関車をイメージした歩道は、ここに鉄道が走っていたことを伝えてくれます。
香里製造所専用線(大阪府)
1941年(昭和16年)星田駅-大阪砲兵工廠香里製造所間に専用線を敷設。1948年(昭和23年)に廃線となりました。現在は高架化されている片町線も当時は地上線でした。
獣医資材支廠長尾分廠専用線と野里兵器廠専用線(兵庫県)
JR福知山線(宝塚線)中山寺駅より分岐していた専用線です。
1940年代の戦時中に軍用資材運搬を目的に建設されました。
終戦後、路線跡は道路へと転用。
天井川である天神川の下をくぐるために作られた鉄道トンネルは道路として使用されています。
トンネルの上の堤防から見下ろすと緩やかなカーブを描く廃線跡を見ることができます。
宇治火薬製造所専用線(京都府)
JR奈良線「木幡駅」より分岐し、宇治火薬製造所へと向かう専用線でした。
廃線沿いは現在、木幡緑道として生まれ変わっています。
緑道沿いには保育所や神社があり、戦争遺構とは思えないほど平和的な風景が垣間見れます。
途中、京阪宇治線と立体交差するため、築堤が高々と築かれています。
京阪宇治線を越え、木幡池を渡ると宇治火薬製造所跡の北側付近で終点となります。
宇治火薬製造所跡は団地が立ち並び、面影は残っていないようです。
祝園分屯地専用線〈川西側線〉(京都府)
JR片町線(学研都市線)「下狛駅」北側より分岐し、陸軍祝園部隊(現・陸上自衛隊関西補給処祝園弾薬支処)へと向かう専用線でした。
1941年(昭和16年)年に建設。
総延長は約4km。
祝園弾薬庫は東洋最大の弾薬庫として知られ、終戦後も在日米軍の輸送用に使用されていました。
煤谷川(すすたにがわ)を渡る橋は廃線後もしばらく残されていましたが、2007年(平成19年)に撤去。
橋桁の一部の横に説明板が設置されています。
戦争遺跡としての廃線跡は普通の廃線跡とは違った思いが込み上げます。二度と繰り返してはいけない歴史。廃線跡を通じて後世に語り継がれていくことでしょう。