下河原線廃線跡の案内地図「散歩もサイクリングも快適な下河原緑道」

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下河原線、66年の歴史

明治末期、道路や鉄道に敷くためのバラスト用に砂利の需要が高まりました。東京では、砂利の宝庫である多摩川に向け、砂利運搬用の鉄道がいくつか敷設されます。その中の一つが1910年(明治43年)に開業した「東京砂利鉄道」です。中央線「国分寺駅」より分岐し南へ、多摩川沿いの「下河原駅」へ向かっていました。

「東京砂利鉄道」は1914年(大正3年)に多摩川大出水で大きな被害を受けたため、一時閉鎖、1916年(大正5年)に軍用鉄道として復活。1920年(大正9年)に国有化され、中央本線貨物支線(通称・下河原線)となります。「下河原駅」付近で取れた砂利は「神田駅」-「上野駅」間の高架鉄道の建設に使用されました。
1921年(大正10年)下河原線は一時廃止。
1933年(昭和8年)、府中に東京競馬場が開場されると、下河原線より分岐した路線を新しく敷設し 「東京競馬場前駅」が開業します。南武鉄道(現在のJR南武線)の「府中本町駅」とともに東京競馬場の最寄駅となります。
競馬開催日に限り「国分寺駅」-「東京競馬場前駅」間に旅客運行が開始されました。
太平洋戦争開戦、その後の戦局悪化にともない、国内が競馬どころではなくなります。東京競馬場は陸軍燃料廠に貸与されることになり、競馬開催は中止に。下河原線「国分寺駅」-「東京競馬場前駅」間も営業休止となります。
戦争が終わり、東京競馬場での競馬が再開されると1947年(昭和22年)に「国分寺駅」-「東京競馬場前駅」間の旅客運行も再開されます。
1949年(昭和24年)には競馬開催日以外にも運行されるようになります。そして1952年(昭和27年)には貨物支線「国分寺駅」 – 「下河原駅」間 が再開業、砂利採取に利用されます。

戦前より計画され凍結していた「東京外環貨物線」計画が貨物量の増加に伴い再浮上、下河原線に沿って建設されることになりました。「東京外環貨物線」計画は1973年(昭和48年)に「武蔵野線」となって開業します。「国分寺駅」-「東京競馬場前駅」間は廃止。残りの貨物線「北府中駅」-「下河原駅」間も武蔵野線に編入されますが3年後に廃止となります。
66年に渡る下河原線の歴史は幕を閉じましたが、廃止後は「下河原緑道」として整備され市民に愛され続けています。

下河原線跡「下河原緑道」を散策

❶武蔵野線との分岐付近

武蔵野線「北府中駅」南、武蔵野線が地下へ潜る付近より下河原線廃線跡の「下河原緑道」が始まります。

❷京王線をくぐります

歩道と自転車道がきっちり色分けされているので、安全です。

番場北裏通りとの交差付近にレールが保存されています。

❸JR南武線を跨ぎます

JR南武線を跨ぎます。下河原線は緩やかな下り坂を下っていたようです。下河原緑道を歩いているとそれほど高低差を感じませんが、周囲の建物を見るとかなりの高低差があることに気づきます。鉄道が敷設される前は「鹿島坂」と呼ばれる坂があったそうです。

❹「下河原駅」方面と「東京競馬場前駅」方面への分岐点

写真の左が「東京競馬場前駅」方面、直進すると「下河原駅」方面です。

まず「東京競馬場前駅」方面へ進み、芝間道(しばまみち)と交差します。芝間道は芝間と呼ばれる南町方面へと通じる道です。

❹「東京競馬場前駅」跡

「東京競馬場前駅」跡は現在、府中市の防災公園となっています。

「東京競馬場前駅」は南武線の手前にありました。

南武線の下の歩道をくぐると…(自転車は押して通れます)

東京競馬場です。

❻府中市郷土の森公園へ

「下河原駅」方面と「東京競馬場前駅」方面への分岐点に戻り、「下河原駅」方面へと進みます。

目の前に現れた「府中市郷土の森公園」。約14万㎡の広大な敷地に博物館、プラネタリウム、復元建築物、交通公園などのさまざまな施設があります。

府中市郷土の森博物館

「府中市郷土の森公園」の北側に廃線跡「下河原緑道」が続きます。

❼「下河原駅」跡

終着駅「下河原駅」の跡地は、東京都立多摩職業能力開発センター府中校、府中市立心身障害者福祉センターとなっています。

❽多摩川堤防付近の砂利積み込み場

「下河原駅」よりスイッチバック、砂利の積み込み場まで引込み線が敷設されていました。

散歩やサイクリングのゴールを東京競馬場や府中市郷土の森公園に設定すれば、下河原線の歴史に触れながら楽しい休日が楽しめそうですね。