埼玉県・深谷という地名を耳にすると、真っ先に思い浮かぶ人物がいます。近代日本経済の父と称される、渋沢栄一です。
彼が生まれ育ったのは、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)。かつての武蔵国榛沢郡にあたるこの村で、栄一は天保11年(1840年)、農家の長男として生を受けました。とはいえ、その家は単なる農家ではありません。藍玉の製造販売や養蚕に加え、米・麦・野菜の生産も行う、多角経営の家でした。

栄一は幼いころから家業を手伝い、藍玉の製造や蚕の世話に励んでいたといわれています。さらに、親族である尾高惇忠のもとで本格的に学問も学んでいました。原料の買い付けから製造、販売に至るまで、一連の工程を自らの手と目で学び、実践した経験は、後の実業家としての基盤を築くことにつながったのでしょう。
その後、栄一は郷里を離れ、明治維新後には大蔵省に仕官します。やがて官職を辞し、民間の経済人としてさまざまな企業の設立に関わり、日本経済の近代化に大きく貢献していきました。
当時、近代国家の建設を進めていた政府は、東京の官庁街を中心に、西洋風のレンガ建築を次々と計画していました。しかし、それに必要な高品質なレンガを大量に製造できる技術や体制は、まだ日本には整っていませんでした。そうした中で、政府は渋沢栄一に期待を寄せることになります。
埼玉県・深谷という地名を耳にすると、真っ先に思い浮かぶ人物がいます。近代日本経済の父と称される、渋沢栄一です。
彼が生まれ育ったのは、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)。かつての武蔵国榛沢郡にあたるこの村で、栄一は天保11年(1840年)、農家の長男として生を受けました。とはいえ、その家は単なる農家ではありません。藍玉の製造販売や養蚕に加え、米・麦・野菜の生産も行う、多角経営の家でした。
栄一は幼いころから家業を手伝い、藍玉の製造や蚕の世話に励んでいたといわれています。さらに、親族である尾高惇忠のもとで本格的に学問も学んでいました。原料の買い付けから製造、販売に至るまで、一連の工程を自らの手と目で学び、実践した経験は、後の実業家としての基盤を築くことにつながったのでしょう。
その後、栄一は郷里を離れ、明治維新後には大蔵省に仕官します。やがて官職を辞し、民間の経済人としてさまざまな企業の設立に関わり、日本経済の近代化に大きく貢献していきました。
明治時代、政府は東京の官庁街を中心に、西洋風のレンガ建築を次々と計画していました。けれども、当時の日本には大量のレンガを安定してつくる技術がまだありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、実業家・渋沢栄一です。
1887年(明治20年)、渋沢は故郷・深谷に「日本煉瓦製造株式会社」を設立しました。深谷が選ばれた理由は、良質な粘土が豊富にあり、利根川を利用して運搬しやすかったからです。
最初は川を利用して東京へと運ばれていましたが、1895年(明治28年)、深谷駅から工場まで約4.2kmに、日本初の「専用鉄道」が敷かれました。深谷のレンガはここから全国へと送り出されていったのです。
この工場で生まれたレンガは、東京駅丸の内駅舎をはじめ、日本銀行本店、赤坂離宮など、近代日本を代表する建築物に使われました。深谷の土から生まれた赤レンガは、日本の近代化をしっかりと支えていたのです。
耐火性に優れていたレンガですが、関東大震災をきっかけに耐震性の弱さが課題となり、需要はしだいに減少しました。その後、セメント事業への転換や貨物輸送の衰退も重なり、専用鉄道は1975年に姿を消しました。
現在、深谷市は「レンガの街」として、渋沢栄一の功績とその歴史をまちづくりの中心に据えています。その象徴ともいえるのが、JR深谷駅です。駅舎には、かつて日本煉瓦製造が手がけた赤レンガが用いられており、東京駅丸の内駅舎を模して設計されています。
ブリッジパークに現存するこの鉄橋は「福川鉄橋」と呼ばれ、日本の近代化を支えた鉄道作業局お雇いイギリス人技師、C. A. W. ポーナルによって設計されたものです。
この橋は、鉄の板をリベットで組み合わせた堅牢な構造の「ポーナル型プレート・ガーダー橋(鈑桁橋)」という形式を採用しています。この設計は、当時の主力であった重い蒸気機関車の通過に耐えられるよう強度を最優先して考案されました。
特にこの橋は、日本に現存するポーナルが設計したプレート・ガーダー橋のなかでも日本最古にあたり、明治期の鉄道土木技術を今に伝える貴重な産業遺産です。
廃線跡をさらに進むと「備前渠鉄橋」があります。国の重要文化財に指定されています。
この先には、日本煉瓦製造株式会社の工場を構成していた「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残されており、専用線の遺構である「備前渠鉄橋」とあわせて、平成9年5月に国の重要文化財に指定されました。現在、保存と活用を目的とした整備が進められており、工事完了は令和9年を予定しています。
渋沢栄一との深い関わりを持つ深谷の廃線跡「日本煉瓦製造専用線」。その歴史を伝えるレンガ造りの鉄橋は日本の夜明けを象徴する美しさがありました。彼の故郷を訪れた際には是非とも見ていただきたい廃線跡です。