廃線跡の旅、鉄路の旅

枚方・禁野火薬庫専用線廃線跡(中宮平和ロード)を歩く

大阪城周辺に設置された大阪砲兵工廠では火薬の製造なども行なっていましたが、市街地に近く危険ということで、1896年(明治29年)まだ寒村であった枚方に禁野火薬庫が設置されました。

1936年(昭和11年)に片町線「津田駅」と禁野火薬庫を結ぶ専用線が敷設され、
片町線を経由し、大阪砲兵工廠や大阪港との間で貨物の輸送が行われるようになりました。
1938年(昭和13年)、禁野火薬庫に隣接して陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設されました。
施設はさらに拡大し、1944年(昭和19年)には「津田駅」と禁野火薬庫を結ぶ専用線は、旅客輸送も行うようになりました。

国土地理院地図より編集

終戦後は、施設撤去のためにしばらく専用線は利用されていましたが1952年(昭和27年)には廃止となります。
廃線跡は市道や国道307号線へと転用されましたが、禁野火薬庫跡手前の約600mは「中宮平和ロード」として整備されています。

津田駅

廃線跡を整備した「中宮平和ロード」。車道と車道の間に公園があります。蒸気機関車をモチーフにしたオブジェは今にも走り出しそうです。

中宮平和ロード

蒸気機関車のオブジェ横には、陸軍用地を示す石柱や古びた軍用電柱が今もなお残されています。

1956年(昭和31年)禁野火薬庫の跡地は小松製作所大阪工場や関西外大、中宮団地となりました。

禁野火薬庫は、その古い歴史の中で2回の大規模な爆発事故を起こしています。
1939年(昭和14年)3月1日に起きた2度目の事故は特に被害が大きく、翌年に一部の施設が大阪陸軍兵器補給廠祝園支処へと移転されました。

そして、3月1日は「枚方平和の日」に認定されました。

大阪-京都の中間に位置し、遊園地「ひらかたパーク」がある「枚方」。関西人にとって「枚方」とは楽しい遊園地「ひらパー」がある場所というイメージがあります。しかし戦争との深い関わりがあったことはあまり知られていないのではないでしょうか。もちろん私も、今回「禁野火薬庫専用線」廃線跡を訪ねたことによって初めて知りました。

「中宮平和ロード」として生まれ変わった廃線跡を歩くと、今の平和な暮らしを感謝せずにはいられませんでした。

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