世界遺産の都市・日光の街に、かつて路面電車が走っていたことをご存知でしょうか。
現在も東武日光駅に降り立つと、駅前には当時を象徴する若緑色とオレンジ色で彩られたツートンカラーの路面電車が展示されています。1910年(明治43年)から1968年(昭和43年)までの58年間、日光駅から馬返(うまがえし)までの約10kmを結んだ「東武日光軌道線」。それは単なる観光路線ではなく、日本の近代化を支えた古河グループの産業遺産としての側面も持っていました。

この軌道線の成り立ちを語る上で欠かせないのが、旧・古河財閥の存在です。 1877年(明治10年)、創業者・古河市兵衛が着手した「足尾銅山」の開発。それは瞬く間に日本一の産出量を誇る大鉱山へと成長し、古河グループの礎を築くとともに、日本の近代化を力強く牽引しました。
当時、銅は電化や産業発展に不可欠な戦略物資でした。1908年(明治41年)、日光町と古河合名(現・古河電工)が合弁で「日光電気軌道」を設立。その目的は、東照宮などへの参拝客輸送はもちろんのこと、古河精銅所で作られた製品を運ぶ「貨物輸送」という極めて重要な任務を担うことでした。
足尾銅山といえば、教科書でもおなじみの「足尾鉱毒事件」を思い出す方も多いでしょう。日本初の本格的な公害問題に立ち向かった政治家・田中正造が放った「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」という言葉は、今も日本の環境保護の原点として語り継がれています。
日光軌道線の最大の特徴は、その過酷な地形にあります。 起点の国鉄日光駅前(標高533m)から終点の馬返(標高838m)まで、わずかな距離で標高差は約300m。最大勾配60‰(1000m進む間に60m登る急坂)という、路面電車としては異例の難所を駆け抜ける、さながら「山岳鉄道」のような存在でした。
終点の馬返からはケーブルカー、さらに明智平からはロープウェイへと接続。華厳の滝や中禅寺湖を目指す観光客にとって、まさに日光観光のメインルートとして君臨していました。
第二次世界大戦中、軍需物資である銅の輸送は国家の至上命令となります。1944年(昭和19年)には貨物輸送量が18万トンを超え、国鉄から借り入れた電気機関車が街中の軌道に直接乗り入れるほどの活況を呈しました。
戦後、1947年に東武鉄道に合併された後は、深刻な老朽化に直面しますが、東武は設備投資を断行。1953年には近代的なボギー車や、2両をつなぐ大型の「連接車」を導入します。戦後の観光ブームと工場への通勤客が重なり、路線は二度目の黄金期を迎えました。
しかし、時代の波は急激に押し寄せます。1950年代後半に「いろは坂」が整備されると、観光の主役は自家用車やバスへと移り変わりました。乗り換えが必要な電車に比べ、中禅寺湖へ直通できる自動車の利便性は圧倒的でした。
貨物輸送もトラックへと切り替わり、さらには日光市内の交通渋滞の一因ともなったことで、1968年(昭和43年)2月24日、惜しまれつつもその歴史に幕を閉じました。
今でも日光の街を歩くと、かつて電車が走っていた名残を感じることができます。
例えば、聖地への入り口である「神橋(しんきょう)」の手前。かつて電車が大きく右へ曲がっていた鉄道橋の橋脚が今も遺構が静かに佇んでいます。
田母沢川に架かる東武日光軌道線田母沢橋梁は今でも、その遺構が道路橋の横に残っています。
荒沢川に架けられた橋は今でもその姿を残しています。この川では日光軌道線の大事故が度々起きていました。この付近に放置されていたお地蔵さんを谷底から引き上げて祀ると惨事がおさまったと言い伝えられています。
日光の繁栄を支えた「古河の工場」と「世界遺産の社寺」。その両方を結んでいたこの軌道線は、まさに日本の近代史そのものだったと言えるでしょう。