直線距離で10kmほどの東海道本線「京都駅」-「大津駅」間には山越えの難所があります。この区間に「東山トンネル」と「新逢坂山トンネル」という2本のトンネルが開通したことで現在は、わずか10分ほどの所要時間で結ばれています。
この2本のトンネルが開通するまでは、この区間に「旧逢坂山トンネル」の1本しかトンネルがなく、東山の山越えは遠回りで迂回していました。
東山トンネルの開通は1921年(大正10年)。上り線、下り線の各1本ずつが掘削されました。その後、隣に3本目のトンネルが掘削されます。
この3本目のトンネルこそが弾丸列車のために掘られたトンネルなのです。
弾丸列車とは、戦前に計画された鉄道。東海道本線・山陽本線で結ばれている「東京駅」-「下関駅」間に別線を敷設し、その区間に高規格鉄道を走らせようとする構想でした。現在の東海道・山陽新幹線の原型です。弾丸列車は、下関からさらに海底トンネルを掘り中国へと到達するという壮大な計画もありました。
しかし、戦局の悪化により1943年(昭和18年)度に工事は中断となります。
この時に工事が進められていた3本のトンネル。
一つは東海道新幹線(「三島駅」-「熱海駅」間)「新丹那トンネル」。弾丸列車工事中断後はしばらく放置されていましたが、東海道新幹線用に利用されることになりました。
そして、東海道新幹線(「静岡駅」 – 「掛川駅」)間の「日本坂トンネル」。弾丸列車工事の中止後も工事は続けられ、在来線用に流用されます。その後東海道新幹線用に利用されることになりました。
そして京都の「東山トンネル」です。こちらも工事は続けられ、在来線用に流用されます。それがこの3本目のトンネルなのです。
東海道新幹線が別ルートで建設されたことにより、このトンネルは在来線用に利用され続けています。高規格である弾丸列車用に作られたため、他のトンネルよりも大きな造りとなっています。
上り2線下り1線となった東山トンネル。その後複々線工事が着工され1970年(昭和45年)に4本トンネルとなりました。
このような弾丸列車の跡地は、全国各地に残っています。弾丸列車工事中断後、用地が所有者に返却されたところもあれば、新幹線に流用されたところもあります。
また機会があれば、この大計画の痕跡を探してみたいと思います。