京成谷津支線廃線跡散策…ディズニーランドと谷津バラ園との意外な関係

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谷津バラ園の前身「谷津遊園」

京成本線「谷津駅」の南側にある「谷津バラ園」。広さは東京ドームの大きさと同じくらいの12,600㎡。世界各国のバラが植えられ、春秋の開花シーズンには多くの人で賑わいます。

谷津バラ園(AC写真より)

この場所にはかつて「谷津遊園」という京成電鉄が直営運営していた大きな遊園地がありました。

1954年に撮影された当時の谷津遊園(Wikipediaより)

1982年(昭和57年)に閉園となり、その遊園地の一部は現在「谷津バラ園」として残されています。

京成谷津支線(京成花輪駅-谷津遊園地駅)

「谷津遊園」へは、京成花輪駅(現・船橋競馬場駅)から京成谷津支線というアクセス路線が1927年(昭和2年)に複線で敷設され、同時に「谷津遊園地駅」が開設されました。しかし、京成本線の「谷津海岸駅」から「谷津遊園」への直通道路が整備されたため、1931年(昭和6年)に谷津支線は単線化、営業休止へ。そして1934年(昭和9年)に廃止となりました。

国土地理院空中写真(昭和19年)より編集
花輪駅(現・船場競馬場駅)

「船場競馬場駅」から「谷津駅」方向へ進むと、京成本線沿いの道路から二手に分かれ、海側に向かう道路が延びています。この道路が谷津支線廃線跡かと思いきや、地図を確認すると微妙に違うようです。開業は1927年(昭和2年)とかなり古く、しかもわずか5年間の営業のため、ほとんど廃線跡は残っていないようです。

京成本線と谷津支線の分岐付近

谷津バラ園周辺はほとんど宅地化されています。「谷津遊園地駅」跡も住宅の中?

谷津バラ園入口

谷津支線廃線後は「谷津遊園駅(現・谷津駅)」が谷津遊園の最寄駅に

谷津支線の廃線に伴い、京成本線「谷津海岸駅」は1936年(昭和11年)に「谷津遊園駅」と改称。「谷津遊園」への最寄り駅として利用されます。「谷津遊園」は都心に近い行楽地として大変賑わいました。

谷津遊園駅(現・谷津駅)

谷津遊園閉園とディズニーランド開園

1960年(昭和35年)、当時の京成社長、川﨑千春氏が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(仮称・オリエンタルランド)を計画します。京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター、後に三井不動産に吸収合併)の3社が出資し、株式会社オリエンタルランドを設立。

株式会社オリエンタルランドの社長となった川﨑千春氏。谷津遊園拡張の際に「谷津バラ園」を新設するため、バラの買い付けにアメリカに渡ります。その時、アメリカで開業間もないディズニーランドに出会い、浦安沖のレジャー施設建設予定地にディズニーランドを招致する計画を立案。1974年(昭和49年)に浦安へのディズニーランド誘致に成功します。

浦安にディズニーランド誘致が決まると、「谷津遊園」は1982年(昭和57年)12月21日に閉園となります。「谷津遊園」は黒字経営でしたが、ディズニーランドが開園後に考えられる入場客の競合を避けるためです。その際「谷津遊園」の従業員はディズニーランドへと移籍します。

1983年(昭和58年)東京ディズニーランドは開園を迎えます。「谷津遊園駅」は「谷津遊園」閉園とともに「谷津駅」と改称されました。

谷津バラ園案内図

1988年(昭和63年)「谷津バラ園」は習志野市の経営となりました。

京成電鉄とバラ

株式会社オリエンタルランド社長の川﨑千春氏は、こよなくバラの花を好まれていました。絵師の家系でもあった川﨑千春氏は、バラの油絵を描くことを嗜まれ、その才能は「油絵で薔薇を描かせたら天下一品というような才能を持った芸術肌の人物」と評価されていました。

その川﨑千春氏がバラがきっかけでディズニーランドと出会い、誘致に成功します。

ディズニー社とバラ育種会社であるジャクソン&パーキンス社(Jackson & Perkins)の協力で作られたディズニーランドローズというバラの花があります。

ディズニーランドローズ(AC写真より)

「バラの花」がきっかけで結ばれた京成電鉄(株式会社オリエンタルランド)とディズニーランドとの深い絆を表しているようです。