高度成長期を迎えた日本。1960年代より羽田空港が飽和状態となってきたため新空港の設立が検討されました。
1966年(昭和41年)、新たな国際空港として成田空港の建設が決定します。
成田は東京都心より50-60kmも離れているため、空港アクセスの整備が求められました。
1976年(昭和51年)度の開業を目指し1974年(昭和49年)より着工されます。
東京-成田を約30分で結ぶ「夢の大計画」でした。
しかし「成田新幹線」建設にあたり様々な問題が弊害となります。
まず騒音問題。当時すでに開通していた東海道新幹線などで騒音公害が社会問題となっていました。
名古屋市南部での「名古屋新幹線訴訟」を引き合いに建設への反発が高まります。
さらに「成田新幹線」は沿線住民に全くメリットがないという問題がありました。
「成田新幹線」の完成予定距離は約65km。都心から空港へ最速で結ぶために計画されたため途中駅は「千葉ニュータウン」のみの設定でした。
これらの問題が重なり用地買収が進まず、開業予定日は過ぎていきます。
新東京国際空港開港の1978年(昭和53年)になっても進展せず「成田新幹線」の工事は足踏み状態でした。
新東京国際空港開港から5年後の1983年(昭和58年)、「成田新幹線」建設工事は中止となり、国鉄分割民営化の際に「成田新幹線」整備計画は完全に消滅してしまいます。
工事の途中で幻となってしまった「成田新幹線」には僅かながらその痕跡が残っています。
東京駅の京葉線ホームは「成田新幹線」のために用意されていたスペースです。
現在の京葉線のルートをなぞるように進み、「越中島駅」を超えたあたりから「越中島貨物駅」付近へと進路を変えます。
荒川を越えたあたりで東京メトロ東西線と並行するように進みます。
「西船橋駅」手前より総武線を越えさらに北東へと向かいます。中山競馬場と行田公園の間のスペースを通ります。武蔵野線と交差するあたりで、その痕跡を見ることができます。下記写真の赤ラインが「成田新幹線」未成線ルートです。
武蔵野線の小金線中山架道橋橋台。小金線とは武蔵野線建設当時の「新松戸駅」 – 「西船橋駅」間の名称です。小金線の高架を建設する際、この下を「成田新幹線」が通り抜けられるように広いスペースが設けられています。
「成田新幹線」未成線ルートはさらに北東へと進み「千葉ニュータウン中央駅」へ。
北総線「千葉ニュータウン中央駅」横に新幹線駅が設置される予定でした。巨大な空間が広がっています。「成田新幹線」工事中止により持て余されたスペースにはソーラーパネルが置かれています。
「成田新幹線」未成線ルートは現在の北総線・成田スカイアクセスに沿って進みます。
成田線と交差するあたりに巨大なショッピングセンター「イオンモール成田」。
「イオンモール成田」の裏側にそびえる巨大な建造物。これも「成田新幹線」の遺構です。2層の高架は「成田新幹線」と「成田高速鉄道」用のものです。現在は上層にJRと京成電鉄(北総線)の各単線が敷設されています。
頑丈そうな「成田新幹線」複線用橋脚。「千葉ニュータウン中央駅」方面から伸びてきた単線の成田スカイアクセスを支えるには十分すぎる堅固さです。
JR成田線は下の写真の左方向(南側)より北総線に合流します。
「成田新幹線」建設中止前の下記写真の赤ラインが「成田新幹線」未成線ルート、青のラインは国鉄成田線です。イオンモール成田が建設される以前は成田線の専用線が敷設されていました。空港建設のための資材輸送基地が置かれ、資材などが専用線で運び込まれ、ダンプカーに積み替えて工事現場へと向かっていました。空港が完成すると商業地域へと大変貌、現在この地域は「ウイング土屋」と呼ばれています。
このように「成田新幹線」未成線ルートの一部は建設中断後も再利用され、成田空港へのアクセスに重要な役割を担っています。おかげで京成スカイライナーは「日暮里駅」から「空港第2ビル駅」間で最高時速160㎞の走行を実現し最短36分で結んでいます。「成田新幹線」の描いていた東京-成田を約30分で結ぶ「夢の大計画」は未成線の活用でほぼ叶ったと言っても良いでしょう。努力と技術の賜物ですね。
「京成スカイライナー」に隠された「成田新幹線」のアナグラム!?