大阪城公園内に廃線跡!?
大阪のシンボル「大阪城(大坂城)」。豊臣秀吉が築き、徳川家康が入城するなど歴史的価値の高い城としてあまりにも有名です。石山合戦、大坂冬の陣・夏の陣、戊辰戦争など歴史の節目、節目で戦乱の舞台となり、明治維新後には大坂城周辺に「大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)」が置かれることになります。大阪城(大坂城)と戦(いくさ)は切っても切り離せない運命にさえ思えてきます。
現在の大阪城ホールの場所に「大阪砲兵工廠旧本館」を設置。大阪城公園・OBPなど周辺一帯の敷地が軍事施設に利用されます。
大阪城(大坂城)の北側には戦火をまぬがれた赤煉瓦の「旧大阪砲兵工廠化学分析場」。大正時代のものです。
大阪城(大坂城)の東側を走る大阪環状線は当時、環状運転は行われておらず「城東線」と呼ばれていました。
1885年(明治18年)に城東線「猫間信号場」より「大阪砲兵工廠」へ専用線が敷設されます。
1932年(昭和7年)に「桃谷駅」 – 「猫間信号場」間が高架化。
残された地上線を利用し「玉造駅」 – 「猫間信号場」間に貨物用別線が敷設されます。
1947年(昭和22年)、戦争が終わり「猫間信号場 」- 「大阪砲兵工廠」間の側線が廃止。
1961年(昭和36年)には猫間信号場が廃止され「玉造駅」 -「猫間信号場」間の貨物用別線も廃止となります。
「玉造駅」– 「猫間信号場」貨物線廃線跡を辿る
「玉造駅」には巨大な電車を模した商業施設「ビエラ玉造」。48年間、大阪環状線のトレードマークとして活躍したオレンジ色の103系です。2017年より新型車両323系にバトンタッチ。「玉造駅」に来ると往年の懐かしい思い出が蘇ってきます。
「玉造駅」の北側。「森ノ宮駅」へ向かう高架の西側には地上線の貨物線跡があります。
「猫間信号場」は「森ノ宮駅」の北側にありました。
大阪環状線に乗ってみると、環状線の西側に側線を見ることができます。貨物線に使用されていたものでしょうか。この辺りが「猫間信号場」だと思われます。
「猫間信号場」- 「大阪砲兵工廠」間の専用線は「大阪砲兵工廠」の施設撤去に使われた後、廃止となりました。
「大阪砲兵工廠」の遺跡は大阪城内各所に残されていますが、廃線跡を示すものは跡形もなく…。
きれいに整備された大阪城公園には、その過去を想像できないほどの平和な光景が広がっていました。