京都には数々の廃線跡がありますが、今回紹介させていただく廃線跡は、おそらく京都の人にもあまり知られていない路線ではないでしょうか。
参考にさせていただいた書物は、風媒社「地図で楽しむ京都の近代 (爽BOOKS)上杉 和央氏/加藤 政洋氏(編著)」。
長い歴史を持つ京都で、特に近代の地図に焦点を当てた興味深い本でした。
その中の一章、「占領期京都に存在した引込線(森田耕平氏)」。
戦後の京都には、連合軍によって接収された島津製作所、日本写真印刷(現・NISSHA株式会社)へ向かう2本の引込線が敷かれていたそうです。
「二条花園側線」と「四条軍用側線」。
その名称からもわかるように、京都の街中に存在していたようです。
両線はともに山陰本線より分岐していました。
二条花園側線
軍用貨物の保管庫として接収された島津製作所三条工場。山陰本線「花園駅」より分岐した路線は、弧を描きながら現在、京都市立花園小学校のある敷地を横切り、南へと向かっていました。
宇多川付近。現在は高架となっている山陰本線。その奥を二条花園側線が通っていました。
花園大学付近です。駐車場の位置が道路に対して、斜めになっているのは廃線跡の痕跡です。
天神川を橋梁で越えていました。下記の写真は橋梁跡付近です。
天神川を越えると島津製作所三条工場があります。
四条軍用側線
京都市中京区。現在、NISSHA株式会社のある場所には、もともと島津製作所四条工場がありました。航空機用の部品を生産していましたが、戦後、生産停止し、その場所にNISSHA株式会社の前身である日本写真印刷が移転されることとなりました。
移転決定後にこの地にも接収命令が下されましたが、交渉の末、接収は一部にとどまります。そこに敷設された引き込み線が四条軍用側線です。
四条軍用側線は「二条駅」の北側より南へと進み、日本写真印刷へと向かっていました。
当時の「二条駅」周辺には貨物ヤードが広がっており、四条軍用側線廃止後も日本食糧倉庫や油槽所などの引込線として利用されていました。
1996年(平成8年)に「二条駅」は 高架駅化。同時に貨物列車の設定が廃止となりました。貨物ヤード跡地は現在、BiVi二条ショッピングモールやマンションが建てられています。
戦時中は、六大都市(東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・京都)の中では比較的被害の少なかった京都ですが、廃線跡に戦後の記憶がかすかに残されていました。