阪急千里線の神崎川橋梁 消えゆく明治初頭の追憶(旧東海道本線)

上十三川橋梁

1872年(明治5年)に新橋 – 横浜間に鉄道が開通した2年後、関西にも鉄道の夜明けが訪れます。
1874年(明治7年)に大阪 – 神戸に鉄道が開通。その2年後には1876年(明治9年)に大阪から京都方面に向け、大阪 – 向日町間が開通しました。

上淀川橋梁

当時の大阪 – 吹田間には、幅の狭い曲がりくねっていた神崎川、中津川(十三川)が流れていました。
中津川(十三川)に架けられた上十三川橋梁ですが、その後、治水工事により川が拡幅したため
1901年(明治34年)8月に上淀川橋梁として生まれ変わります。
しかし、元の橋は残っていないようです。

東海道本線の経路変更

この上淀川橋梁の完成により、上淀川橋梁の北側に急なカーブができることになりました。
神崎川を渡る上神崎川橋梁が、この急カーブを解消するため、また淀川の北岸を通る貨物線(北方貨物線)との便宜を計るためなどの理由により東海道本線が大きく経路を変更します。

東海道本線の旧線跡は阪急千里線に

東海道本線の旧線跡は現在では阪急京都線・阪急千里線の線路敷となっています。

A.柴島浄水場横の廃線跡

柴島浄水場横にある東海道本線の旧線跡。舗装道路に転換されています。廃線跡は阪急京都線に合流します。

B.新神崎川橋梁

明治時代に作られたレンガ造りの橋脚に継ぎ足しながら活用されていた歴史ある橋ですが
とうとう阪急千里線の高架化により取り壊されるようです。

C.阪急千里線と旧東海道本線の分岐付近

写真左の空き地が旧線跡?この先は東海道本線の新線に合流します。

この付近に橋台があったようです。

東海道本線の変遷をたどれば、阪急電車の経路と大きく関わっていることがわかりました。その歴史を語る上で重要な遺構の「神崎川橋梁」がなくなってしまうのは非常に残念です。