京阪宇治線の「六地蔵駅」と嵐電「天神川駅」を結ぶ京都市営地下鉄東西線。
1997年(平成9年)に「醍醐駅」- 「二条駅間」、2004年(平成16年)「六地蔵駅」 – 「醍醐駅間」の延伸、2008年(平成20年)には、「二条駅」 – 「太秦天神川駅」間が延伸開業し、現在のカタチとなりました。
京都市営地下鉄東西線は比較的新しい路線ですが、「六地蔵駅」-「山科駅」間に鉄道を敷設する計画はかなり古くからありました。
幻の未成線「京阪六地蔵線」です。
大阪から大津への短絡ルートとして「六地蔵駅」より奈良街道沿いに建設される予定でした。
1926年(大正15年)に出願され、翌1927年(昭和2年)10月28日特許されるも、1937年(昭和12年)に「六地蔵線起業の廃止」が許可されています。
奈良街道とは京都市営地下鉄東西線が通る外環状線の東側に並行している道路です。
幻の未成線「京阪六地蔵線」、もう痕跡はないものと思っていましたが、調べてみると下記のページに大変詳しくまとめられていました。
JR奈良線「六地蔵駅」の真下にある「京阪電鉄橋梁」。JR奈良線の下を「京阪六地蔵線」が通れるように作られたもののようです。
京阪「六地蔵駅」から「京阪六地蔵線」のルートを伸ばすとJR奈良線の交差部「京阪電鉄橋梁」の位置がぴたりと重なるようです。
現在はこの橋梁下に駐輪場が設置され、その下に水路が設けられています。
1992年(平成4年)にJR「六地蔵駅」が開業されるまでは、通ることのない「京阪六地蔵線」用に口を開けたままの状態だったのでしょうか。
国土地理院ウェブサイトの空中写真を見てみましょう。
1946年(昭和21年)の空中写真では、川が流れていないのに橋が架けられています。間違いなく「京阪電鉄橋梁」ですね。しかし、この時すでに「京阪六地蔵線」の計画は消滅しています。
そして時は流れ、JR六地蔵駅開業前の1987年(昭和62年)の空中写真です。「京阪電鉄橋梁」の下に水路が設けられています。このあたりは土地が低く、たびたび川の氾濫が起きていました。そのため、「京阪電鉄橋梁」を利用して新しい水路が設けられたのでしょう。
JR奈良線「六地蔵駅」開業前に見てみたかったです。
他には痕跡は残ってないようです。
「京阪六地蔵線」の建設予定地は合場橋付近から道路「新奈良街道」に使用されています。
「新奈良街道」は広くて通りやすい道路です。
今にも列車が通りそうな「醍醐跨道橋」。この上を「京阪六地蔵線」が走っていたかもしれません。
京阪バス山科営業所付近で「新京阪山科線」と接続予定でした。
「新京阪山科線」は阪急の「西向日駅」から山科をつなぐために計画された路線です。
1929年(昭和4年)に工事施行認可申請しますが「京阪六地蔵線」の計画中止とともに1937年(昭和12年)に断念されます。
ここで合流した「京阪六地蔵線」と「新京阪山科線」は旧東海道線の廃線跡を通り大津へと向かう予定でした。さらに名古屋急行電鉄(未成線)を経由し、名古屋をめざす壮大な計画があったそうです。
今となっては全て未成線のため信じ難い話ですが、「京阪電鉄橋梁」の存在は確かな証拠として永遠に語り継がれることでしょう。