古来より結びつきの強い大阪と奈良。その間に連なる生駒山系の山々を越えるため、古くから街道が整備されていました。
大阪と奈良を結ぶ短縮ルートの中間地点にある標高455mの峠、「暗(くらがり)峠」。この峠を通る街道は「暗峠奈良街道」と呼ばれ、江戸時代には参勤交代が往来するなど沿道は大きく栄えていました。峠の石畳は大名行列がぬからまないようにと敷き詰められたそうです。20軒近くの茶店や旅籠が立ち並び、伊勢参りの人々にも利用されました。松尾芭蕉も奈良から大阪へ行く時にこの道を通ったと伝われています。
しかし1890年(明治23年)、大阪鉄道(現在の関西本線)により大阪「湊町駅」と「奈良駅」間が結ばれると人や物の流れが一気に鉄道へと変わり、「暗峠奈良街道」の賑わいが寂れます。
その後は片町線(学研都市線)も開通、2本の鉄道が大阪-奈良を結ぶようになります。しかし、当時はトンネル掘削技術が未発達だったため、両路線は生駒山系を避けて大きく迂回していました。
近鉄電車の前身である大阪電気軌道は、大阪と奈良間を「暗峠奈良街道」に並行するように直線で結ぶことを計画します。
当初は、暗峠沿いにケーブルカーを敷設する案もあったようです。
しかし、利用客には「平面線-ケーブル線–平面線」の乗り換えが必要となり、手間がかかる上に所要時間もそれほど短縮が見込めないため断念。
大阪電気軌道は生駒トンネルの建設に向け大きく舵を切ります。
2年10ヶ月の難工事の末、1914年(大正3年)に生駒トンネルが開通。
中央本線の笹子トンネルに次ぎ日本2番目の長さを誇る日本初の標準軌複線トンネルの誕生です。
「上本町駅」 – 「奈良駅」間30.8kmを所要時間55分で結ぶことに成功しました。
その後、輸送量拡大のため新生駒トンネルが建設され、1964年(昭和39年)より新線へと切り替えられました。
一方、モータリゼーションの発達に伴い、大阪-奈良間の道路も整備されます。1958年(昭和33年)に阪奈道路が開通。当初は有料道路でしたが現在は無料道路となっています。また、1997年(平成9年)には第二阪奈道路(有料)も開通され、大阪-奈良間の距離を一気に縮めました。
大阪-奈良間の交通網が移り変わったことで「暗峠奈良街道」は当時の面影を残したままの状態で佇んでいます。
「暗峠奈良街道」は現在、国道308号に指定されていますが、国道随一の急坂(最大斜度31%)ともいわれ、道幅も狭いため酷道(こくどう)と評されています。
しかし、大阪や奈良からアクセスが良く、スリルが楽しめるため酷道愛好家には人気の峠道です。対向車が来れば自動車の行き違いにも一苦労、かなり上級者向けの酷道となっています。
暗峠付近の頭上で信貴生駒スカイラインがオーバークロス。車幅1.8mの車は通行不可!
歴史もあり、風光明媚な「暗峠」。
ケーブルカーが通っていたなら、もっと人気の観光スポットになっていたかもしれませんね。しかしケーブルカーが通らなかったからこそ、この素朴な風景が残されたのかも?