京王御陵線路線図 ブラタモリでも紹介された橋脚の遺構と廃線跡

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京王御陵線は、かつて東京都の京王線「北野駅」から多摩御陵付近の「多摩御陵前駅」までを結んでいました。大正天皇の御陵である多摩御陵は、なぜ、この地が選ばれたのでしょう?

それは、地盤が強く地震に強い土地だったからです。また、古来より「多摩の横山」と呼ばれ、万葉集にも詠われるなど歴史ある場所でもありました。多摩御陵参拝のためのアクセスとして開業を目指した京王御陵線、当初のルートは北回りと南回りの2案からの選考が検討されていました。

北回りは東八王子駅(現・京王八王子駅)から延伸し、甲州街道の北側を回り多摩御陵へ向かうルートです。市街地を通るため多くの乗客が見込まれましたが、このルートによって八王子の街が分断されることを懸念した八王子議会は北回りルート案を却下。南回りルートが採用されることになりました。

国土地理院地図空中写真(1960年代)
国土地理院地図より編集

南回りルートは、北野駅から分岐して片倉を経由、中央本線と甲州街道を高架でオーバークロスし、多摩御陵付近へ至るルートです。

京王御陵線の高架部分で使用されていた橋脚の遺構が住宅地内にまだ残されています。この遺構は2016年(平成28年)のブラタモリ「高尾山」の回でも紹介されました。タモリさんはこの橋脚を興味深く眺めていらっしゃいました。

京王御陵線橋脚
京王御陵線橋脚

京王御陵線開業時には、すでに多摩御陵参拝ブームのピークは過ぎていました。また南回りルートの沿線は人口も少なく、乗客数は伸び悩みます。そして太平洋戦争中には資源不足により金属資源の供出要請を受け、御陵線は1945年(昭和20年)に休止されます。

多摩御陵前駅跡

廃線同様となった御陵線ですが、この路線の一部を利用した「京王高尾線」の建設案が浮上します。「京王高尾線」が計画された理由は、いくつかあります。まず、北野から片倉方面では住宅地化が進み、通勤や通学の需要が見込まれていたことが挙げられます。また、狭間付近には狭間工業地区という工業地帯が設定されており、将来的な発展が期待されていました。

さらに、観光地の少ない京王線沿線にとって、注目されたのが八王子市南西部に位置する高尾山です。高尾山は観光地として人気を集めていましたが、1962年(昭和37年)当時は国鉄高尾駅や東八王子駅からバスでしかアクセスできず、不便な状況でした。これらの状況を踏まえ、京王は通勤・通学路線としてだけでなく、行楽の足としても利用できる新しい路線「京王高尾線」を計画しました。

具体的には、京王はかつて存在した御陵線の一部である北野から山田までの区間を改修・複線化し、さらに山田から高尾山まで新たな路線を敷設することを決定。途中のめじろ台駅では、自社の住宅団地を開発する計画も進め、着工からわずか1年9か月という短期間で全線を開業させました。このように、「京王高尾線」は通勤・通学需要と観光需要を見据えた戦略的な路線として建設されました。

「京王高尾線」の開通は、八王子市の発展に大きく寄与しました。特に、めじろ台における宅地開発に際して、この路線は重要な役割を果たしました。また、高尾山へのアクセスを容易にすることで、昨今の高尾山観光ブームの増加にも一役買っています。