大阪府・高槻の町には、現在のJRや阪急とは異なる、もう一つの重要な「鉄道」が走っていました。淀川の恩恵を受けながら発展してきた高槻が、かつて水害という脅威に立ち向かうために生み出した、知られざる物語です。
かつての城下町・高槻は、明治に入ると大きな転換期を迎えます。1871年(明治4年)の廃藩置県により高槻城は廃城となり、その美しい石垣は鉄道建設のために切り出され、町は一時衰退の兆しを見せました。
活気を取り戻した高槻でしたが、水害の脅威は常に隣り合わせでした。 1935年(昭和10年)、未曾有の豪雨が関西を襲います。淀川の支流である芥川は決壊の危機に瀕し、水防活動にあたっていた高槻工兵隊からは殉職者を出すほどの激闘となりました。
この悲痛な経験を教訓に、1939年(昭和14年)、淀川の両岸で大規模な堤防強化工事が開始されました。この時、土砂運搬の主役として登場したのが、蒸気機関車が牽引するトロッコ列車「土汽車(つちきしゃ)」でした。

このトロッコ列車は、線路幅1,067mm、機関車小型20t級、1列車 25両連結し1度にダンプ25台分の土砂を運搬一編成で100t近い土砂を運ぶその姿は、まさに街を守るためのヒーローでした。
芥川右岸の土取場を出発したトロッコ列車は堤防上を進み、郡家本町にあった橋を渡って左岸に出て、芥川の堤防上を南下します。芥川大橋を過ぎてから再び川を渡って右岸に出て、淀川堤防へと向かいました。土木工事現場に到着すると、トロッコを傾けて土を降ろしました。レールは柱本四丁目辺りまであったようです。


昭和30年代、高度経済成長とともに輸送の主役は機動力に勝るダンプカーへと移り変わり、土汽車の汽笛は街から消えていきました。
しかし、その痕跡は今も残っています。郡家本町の芥川の川中には、当時トロッコが渡った橋脚の基礎が静かに佇んでいます。これは「高槻まちかど遺産」に選定され、かつてこの街に鉄道による壮大な土木工事があった歴史を今に伝えています。


かつての軍都・高槻を駆け抜け、水害から市民を守る礎を築いた「土汽車」。その鉄路の記憶は、現在の穏やかな芥川の風景の中に、今も大切に溶け込んでいます。










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