1894年(明治27年)に旧陸軍「造兵廠宇治火薬製造所」が宇治・黄檗(おうばく)の地に設けられました。黄檗は隠元禅師が開いた開いた黄檗山(おうばくさん)萬福寺で有名なところです。
黄檗が火薬製造所に選ばれた理由は、宇治川が近くにあったからです。宇治川より淀川へ下ると「大阪砲兵工廠」のある大阪城へと繋がっています。宇治・黄檗の立地は船運による物資の運搬に大変便利でした。
軍事施設は時代の流れとともに、現在の京都大学宇治キャンパスや黄檗山一帯にまで拡大されました。「宇治火薬製造所」は現在、陸上自衛隊宇治駐屯地に変わっていますが、陸軍省用地の境界標石が残っています。
また、火薬庫として使用されていた黄檗公園にも戦争の遺構が残っています。当時、火薬庫の周囲は安全性確保のために土塁が築かれていました。土塁の出入り口に設けられたトンネルの跡が戦争の記憶を残す遺構として保存されています。
1905年(明治38年)には木幡付近にも「陸軍宇治火薬製造所木幡分工場」が建設されました。
奈良線より「木幡分工場」へ引き込み線が建設されました。引き込み線はJR木幡駅より北西へ分岐すると木幡池を渡り「木幡分工場」へと向かいます。現在、線路はありませんが、築堤や橋桁が残っています。
木幡駅より分岐後の引き込み線廃線跡の一部は木幡緑道として整備されています。許波多神社・木幡保育園という「戦争」のイメージから遠くかけ離れた建物が廃線沿線に並びます。
実際に中間駅は存在していませんでしたが、廃線跡を想起させる駅票やベンチが置いてあります。
やや高台にあるJR木幡駅から木幡池に向かう地形は緩やかな下り坂となっています。
引き込み線は築堤によって高度を保ちながら木幡池方面へと向かいます。
廃線跡は奈良街道の上を越えていました。橋は残されたままです。
京阪宇治線の頭上も越えます。こちらの橋は残っていませんが、橋台が残っていました。
京阪宇治線をオーバークロスした後は、徐々に下りながら西へと進みます。廃線跡は現在、舗装道路に転用されています。
引き込み線の目的地であった「陸軍宇治火薬製造所木幡分工場」跡は桃山南団地となっています。
源氏物語やお茶で有名な宇治。雅なイメージとは裏腹に数多くの戦争遺跡が残されていたことに、驚きを隠せませんでした。