もう見納め!?太宰治ゆかりの陸橋から見える武蔵野競技場線廃線跡

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太宰治ゆかりの三鷹跨線人道橋から見える廃線跡

晩年を三鷹で過ごした太宰治。有名な彼の写真から「三鷹跨線人道橋」は太宰治ゆかりの地として知られています。1929年に建設された「三鷹跨線人道橋」は、全長約90メートルの橋で、JR中央本線「三鷹駅」から約500メートル西に位置しています。この跨線橋からは、JR中央本線を行き交う列車を眺めることができるので、太宰治ファンだけでなく、小さなお子様から撮り鉄の方までも魅了する人気のスポットとなっています。

三鷹跨線人道橋案内板

これほどまでに愛されている「三鷹跨線人道橋」ですが、建設からおよそ100年が経とうとし、老朽化も進んでいるため、取り壊しが決定されています。ただし、太宰治が使ったとされる階段の一部は保存されることになったため、地元の方や太宰治ファンもひとまず安心のようです。

三鷹跨線人道橋
三鷹跨線人道橋

武蔵野競技場線とは

この「三鷹跨線人道橋」の上からは、かつて存在した武蔵野競技場線の廃線跡が見えます。武蔵野競技場線は1951年(昭和26年)に建設された「三鷹駅」と「武蔵野競技場」を結ぶ路線です。太宰治の亡くなった3年後に開業しています。

三鷹跨線人道橋から武蔵野競技場線廃線跡を望む

武蔵野競技場線は首都圏の球場不足を解消するために建設されました。武蔵野競技場は広いグラウンドと5万人以上を収容できるスタンドを持つ本格的なスタジアム。1日に最大3試合を開催、更衣室や売店、喫茶店、ビアホールなどが設けられ、将来的には宿舎や練習場も建設される予定でした。

アクセスには、武蔵野競技場線の他にも、西武鉄道、京王帝都電鉄(当時)などが計画されていましたが建設までには至らず、武蔵野競技場線のみの開業となりました。

武蔵野競技場をヤクルトスワローズの前身である国鉄スワローズの本拠地にしようと招致を計画。

しかし、東京都心からの距離が遠いなどの理由で招致失敗。単なる競技施設として利用されることになりました。招致失敗が原因となって、翌年には、武蔵野競技場線の列車の運行がなくなり、1959年(昭和34年)に廃線となりました。

歴史が一歩違えば、三鷹がヤクルトスワローズの本拠地になっていたかもしれません。東京ドームや神宮球場に比べると不便かもしれませんが、新宿駅から約20分。平日の仕事帰りの野球観戦には十分な近さですよね。

武蔵野競技場線廃線跡散策

武蔵野競技場は、中島飛行機武蔵製作所という軍需工場の跡地に作られました。そして、武蔵野競技場線は、中島飛行機武蔵製作所工場引込線を利用して建設されました。中島飛行機武蔵製作所工場引込線は、物資の輸送に利用されていたそうです。中島飛行機武蔵製作所工場引込線を敷き直しによって開業した武蔵野競技場線。

現在は、緑豊かな遊歩道として生まれ変わっています。

国土地理院地図より編集
国土地理院地図より編集(昭和28年頃の空中写真)

「三鷹駅」から玉川上水までの廃線跡は現在「堀合(ほりあわい)遊歩道」として整備されています。

玉川上水を渡るぎんなん橋。

ぎんなん橋

ぎんなん橋の下には、武蔵野競技場線(中島飛行機武蔵製作所工場引込線)の橋台が残されています。

中島飛行機武蔵製作所工場引込線橋台跡

さらに、北へ進むと武蔵野競技場線と中島飛行機武蔵製作所工場引込線の分岐点です。

中島飛行機武蔵製作所工場引込線跡

写真右側が武蔵野競技場線跡、左側が中島飛行機武蔵製作所跡です。

武蔵野競技場線跡は大きく弧を描き、武蔵野中央公園へと向かいます。

武蔵野中央公園

武蔵野中央公園の現在は、憩いの場として多くの家族連れで賑わっています。でも昔は軍需工場だったのですね。

一部を残し撤去されることが決まった「三鷹跨線人道橋」。この上から眺める武蔵野競技場線廃線跡の眺めはまもなく見納めになることでしょう。残念ですが、跨線橋の点検や修繕などの費用は、年間3500万円もかかるそうです。仕方がないですね。

跨線橋の代わりとなる地下道もすぐそばにあり線路の横断は支障なく行えるとのこと。むしろ1世紀もの間、よくぞ跨線橋を残してくださったという想いしかないですね。